kildare1966の個人的な感想徒然

いろいろと自分が感じた感想についてアップしていきます。

失望からの期待感 シン・ウルトラマンの感想について


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庵野監督が総監修をした「シン・ウルトラマン」を鑑賞してきました。樋口真嗣監督の作品とはいえ、やはり庵野秀明さんが関わったとなれば期待が膨らみましたが、鑑賞後の最初の感想は「失望」でした。「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」との同時進行だったからなのか。最初から庵野さんが撮っていれば… そういう感想が最初に湧き上がりました。ただ、時間が経つにしたがって「もう一度観たい」という気持ちが強くなっているのが現状です。要するに「シン・ゴジラ」と比べながら鑑賞していたからです。でも、これは別の作品。庵野さんが同じようなものを創っても単なる納得感しか得られなかったと思います。もし鑑賞する前にこれを読まれる方がいらっしゃったら、参考にしてください。

1.喋らない主人公

神永が最初に登場したのは禍特対の一員としてでした。その際に神永は禍威獣を冷静に分析していてむしろ多弁な印象を感じます。ただ神永=ウルトラマンとなった以降は寡黙な印象を受けます。この映画で良かったのはそれをくどく映像では見せず、ある1シーンだけでその変化を見せています。庵野さんが元々、説明不足な映像を好むのを思い出してくると、それで良かったのだと感じました。つまり神永=人間ではなく、またウルトラマン=リピアも人間というものを理解している途中なのだと言うことです。ここを何度も描かないほうが最後にむしろウルトラマン=リピア=神永が自分で決めた覚悟が際立ってきます。

 

2.多弁なヒロコ・アサミ

浅見だけではなく、田村班長をはじめ滝、船縁はむしろ多弁です。最初は浅見が神永の心境を代弁する発言が多かったのが、次第に皆が神永を思う気持ちを持って語っています。ただの代弁ではなく自分の心境を持って語るなかで、彼らも神永=人間ではなく神永=ウルトラマンである彼を理解しようとしていきます。ここはエヴァで塞ぎ込むシンジの代わりにアスカ、レイが見捨てずにシンジに関わろうとしていた面も似て感じられます。同じようにアスカ、レイも単なる代弁者に終わらずに自分の気持ちも語るようになります。そう考えると、この映画は田村班長らの禍特対のメンバーの成長も描いていると思います。この成長の姿を庵野さん、樋口さんがくどい映像ではなく1カットなどで描いていたのがむしろ良かったと思います。

 

3.無能な禍特対

何しろ主人公は神永=ウルトラマンです。禍特対も既に6体の禍威獣の退治に関わってきたむしろ優秀なメンバーと言えます。そこをさらっと描くので物語が進むにつれて禍特対が無能な集団に見えてしまいます。ですが、そのように無能に見えても神永=ウルトラマンは彼らを最後に頼ります。滝も今までの活躍があったのだろうに、地球人には外星人に対して太刀打ちもできないという事実を突き付けられて自暴自棄になっているシーンがあります。ここはあえて禍特対をそのように描いたのだと思います。ここだけを見て「禍特対は騒ぐだけ」という感想をよく見ますが、これがあるからこそ最後に禍特対が神永=ウルトラマンに逆に作戦を提案するシーンが活きてくるのだと思います。

 

4.ゾーフィこそ光の国の住人

ここはネタバレはしませんが、ゾーフィは人間に対して思い入れがないように描かれています。それはザブラ、メフィラスが人間に対する気持ちと何ら変わりはありません。進化した外星人にとっては人間など蟻程度に等しいものです。メフィラスは人間より優位な立場に立つことを日本政府に告げますが、むしろその行為が人間臭く感じます。ゾーフィの姿を見ただけでメフィラスは敗北を認めて、地球から立ち去っていきます。ここは本当に1シーンですので見逃しがちで、あっさりと地球征服を諦めたメフィラスの行動が理解しにくいのです。

つまりメフィラスなどの外星人にしては光の国の住人は自分よりもむしろ冷酷な別格の存在であることをよく知っていたわけです。その通りにゾーフィは神永=ウルトラマン=リピアに冷酷な決定を告げます。ここで考えるのは神永=ウルトラマン=リピアも本来は人間に対する気持ちはゾーフィと変わらないものだったと言うことです。だからこそ神永=ウルトラマン=リピアが自分を犠牲にしても人間を救うために滝=禍特対=人間が立案した計画を遂行しようとする姿にウルトラマンが神永、そして人間を理解してきたなかでの進化が描かれていると言えます。

 

5.ウルトラマンは正義の味方ではない

ここはあっさりと書きますが、最後の敵を倒したのはウルトラマンではなく、人間化したウルトラマンであり、滝を始めとした人間が考えた作戦によるものでした。つまり、外星人>禍威獣 vs 人間という戦いを描いているのだと思います。だからこそゾーフィは神永=ウルトラマン=リピアの気持ちが分かるほど人間の存在を認めるようになったのだと言えます。人間に対して消し去る程度の認識しかなかった冷酷な存在である光の国の住人が、人間の存在を認めた結末になっています。ウルトラマンは「正義」という大義のために戦うのではなく、人間としてすべき行為を行った。ウルトラマン=人間と描いているとだと思います。

 

6.ウルトラマンは…

素直に見てウルトラマンは綺麗だと思いませんか。登場時に銀色1色だったのが、神永と融合した後には私達がよく知る赤色が配色されます。その後、エネルギーを消耗した際の体色の変化はむしろゾーフィと同じものになります。ウルトラマンは神永と融合を果たすことで、逆にゾーフィと同じ高位な存在に進化したとも言えます。

 

7 .最後に

樋口監督は庵野さんの脚本を描き切ったと言っています。庵野さんがカメラを撮ったわけではないので、シン・ゴジラとか何か違うなという印象=不満が募る部分もありますが、これは別の映画です。竹野内豊さん=政府の男など楽しませてくれる面もあります。浅見のシーンに対して「セクハラだ。」「気持ち悪い」という意見もあります。特に作戦遂行のために神永=ウルトラマンが浅見の体臭を嗅ぐシーンがやり玉に上がっていますが、あれは斎藤工さんという俳優を見ての意見に思えます。何度も言いますが、神永はウルトラマンです。彼には人間のデリカシーをまだよく理解していないことを前提に「作戦の遂行のため」にあのような行動をしています。あそこで彼に「浅見さん、ごめん」とか言わせたら興醒めですし、朝見にも「ちょっとしつこい」とは言わせません。視聴者よりも彼らのほうが神永が外星人であることをきちんと理解しているシーンです。浅見が神永=ウルトラマンをバディとして信頼していることも表していると思います。何しろあのアスカに「気持ち悪い」と言わせ、アスカ、レイに裸でタオルを肩にかけただけの姿で登場させたのが庵野さんです。いい意味で言えば樋口さん、庵野さんは撮りたいシーン、観せたいシーンを表現しているのは今までと変わりがありません。それが実写であるために生々しいと感じるわけですが、特に庵野さんが「俳優」を、単に描くシーンに登場するキャストとして割り切って扱うのはシン・ゴジラでも分かっていたはずです。むしろ樋口さん、庵野さんでなければあのようなシーンは描かなかった、俳優に対して配慮した映像に留まってしまったのではないかと思います。それはアニメでの表現に追求してきた庵野さんだからの撮影方法であると言えます。

エヴァンゲリオンの公開が遅れるなかでファンは過去作品を何度も見直しながら次回作を心待ちにしていました。これが出来たのはこれらの過去作品が何度も観ても飽きない優秀な作品だったからだと言えます。次の作品はシン・仮面ライダーですが、庵野さんはウルトラマンはまだまだ描きたいと思っているのではないでしょうか。逆にそれを期待します。本来、描きたいものがあるなかで敢えてエヴァンゲリオン劇場版Qをあのような作品にした勇気が庵野さんにあるからこそシン・ウルトラマン2があれば期待して待てる気がしますし、何度もシン・ウルトラマンを見返してしまうのだろうなと思います。